今日も京都でこんにちは。
映画『CONTACT(コンタクト)』を、
スピリチュアル目線で観てみようの後編です。
前回はコチラ。
【真理の探究】
そして物語は進み、ヴェガからのメッセージを解読すると、
メッセージの中に、一人乗りの移動装置の設計図が見つかり、
その巨大装置が建設された。
その乗務員に立候補したエリーに、パーマーがいう。
「君はこの任務に命を懸けようとしている。
死んでも構わないと思っている。何故だ?」
それに対してエリーは、
「物心がついた頃からずっと思ってた。何故人間はここにいるのか?
一体何をしているのか?一体何者なのか?」
「今回の計画が、その一部を見つけるチャンスだとしたら、
命を懸ける価値があると思わない?」
これは、まさに「真理の探究」哲学的問いです。
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
そう、宗教も科学も求めているものは同じなんです。
ポール・ゴーギャン作『我々は何処から来たか、我々は何者か、我々は何処に行くのか』
乗務員選考面接の最後の質問で、選考委員の一人であるパーマーに、
「あなたはご自分を、敬虔な人間(Spiritual Person)だと思いますか?」
「神を信じますか?」と聞かれ、戸惑いながらも、
「科学者として私は、実証主義をとっています。」
「神の存在については判断するデータがありませんので答えられません。」
と回答し、選考から漏れてしまいました。
その後、何故そんな質問をしたのかとパーマーに詰め寄ると、
「万人の代表を選ぶのが僕らに課せられた仕事だ。
正直いって僕は選ぶ事ができなかった。神を信じない人間を!」
「君は自分以外の95%の人たちの信仰を、
単なる思い込みと決め付ける人間だ」と言い切ります。
それまで第一候補だったのに、神を信じるわけにいかないと、
科学者として全うに答えただけで、はじかれてしまう。
先日書いた【科学は信仰の障壁?】の中でも触れましたが、
信仰というものが、世界中の人々の中に、
どれだけ根付いているかを伺わせるシーンです。
それと同時に、こんなエピソードもあります。
「自然を破壊してきた科学者に、神との対話を許してはならない!」
とする宗教者が自爆テロリストと化し、装置を破壊してしまうのです。
この様に、宗教も盲信してしまうと、どのような道を辿ってしまうのか、
という、宗教の恐ろしい一面もキチンと描かれています。
【至高体験】
その後、実は装置はもう一つ在って、
結局エリーが搭乗することになります。
ちなみに、秘密裏に建造されていたこの装置、
ナント、北海道に作られていたんです!
つまり、宇宙と繋がる記念すべき場所が日本だということ!
これからの世界をひっぱていくのはアジア圏、
それも日本人がリーダーになるという話もありませが、
それを感じさせるような、深い意味を感じてしまいますね。
そして、時空間をつなぐトンネル「ワームホール」を通って、
エリーはヴェガに向かうんですが、
その途中で見た宇宙のあまりの美しさに、言葉を失い、
「まるで天上の祝祭。いいえ、言葉では、
ありきたりの言葉じゃ、表現できないわ」
「これはポエムよ」
「ここに来るべきだったのは詩人よ」
「なんて綺麗なの」
と言うステキな台詞があります。
この辺りは覚醒したときの「至高体験」を表しているのでしょうか。
そして、いよいよヴェガ星人と対面するのですが、
ココが肝だぞ!コレを陳腐に描いたら、全て台無しだぞ!
と、映画を観ながら思っていたんですが、
ナルホドそうきたか!そうだよな、リアルに考えたらそうなるよな!
って感じで、かなり納得の表現をしていました。
ヴェガ人との一言一言の会話も、非常に重要なんですが、
このシーンに関しては、敢えてココには書きません。
ご自身で確認して、その会話から直接感じ取って頂きたいです。
ひとつ言っておきたいのは、この装置やワームホールを作ったのは、
ヴェガ人ではなく、もっと大きな存在だということ。
これは覚えておいて下さい。
そして、エリーは無事返ってきて、「何日くらい行ってた?」と聞くが、
皆は実験は失敗だったと告げ、困惑するエリー。
外側から見ていると、その乗り物は目の前から消えることはなかったのだ。
計測器でも見失っていたのは1秒以下の一瞬に過ぎなかった。
ずっと記録していたはずのビデオも、ノイズしか入っていなかった。
つまり、何も起きなかったというのだが、
エリーは明らかに体験していた。
【存在証明】
ヴェガに行ったことの証拠が何もない、
科学的に証明できない。そもそも信号を受信したというところから、
全てはねつ造、でっち上げだったんじゃないか!
として、エリーは詰問会に掛けられ、
あなたの証言は嘘、幻覚だと認めろ!と詰め寄られます。
それに対してエリーは、科学者という立場として、
確かに何も証拠がない、幻覚だった可能性もあると認めつつも、
それが無かったとは認めることが出来ないと言います。
「私は確かに経験しました。」
「証明も、説明もできません。」
「でも、私の全存在がこう告げているのです。あれは事実だったと!」
「あの経験は私を変えました。」
「宇宙の、あの姿を見て、私は改めて気付いたのです。」
「我々が如何にちっぽけな存在であるかを。同時に我々が如何に貴重であるかも」
「私は知ったのです。我々は、より大きなものの一部である事を。」
「我々は決して孤独ではありません。」
「そのことを伝えたいのです。」
「あの畏敬の念と、希望とを・・・」
この詰問会後、記者から「あなたは信じますか?」との質問に、
神学者であるパーマーはこう答えます。
「科学と宗教の違いこそありますが、目指すものは同じ、真理の探究です!」
「彼女を信じます」そう言って、エリーの手を握ります。
科学を探究してきたエリーも、神を信じ続けるパーマーも、
進む道は違っても、同じ場所にたどり着くのです。
そこには、宗教と科学の境目はありません。
そこにはなんの矛盾も生じません。
我々は大きなものの一部に過ぎず、そこには何も違いはないのですから。
人は太古の昔から、探求し続けてきました。
しかしその方法は、人によって様々です。
ある人は、宗教的 神の中に真理を探し、又ある人は哲学の中に探します。
他にも、絵画や音楽や文学のように芸術の中に観いだす人もいれば、
植物や鉱物、動物の中に大いなる存在を感じる人もいます。
そして、もちろん科学の分野においても、それは同様なのです。
どんなものが好きで、どんな性格をしていて、
どんな見た目で、どんな生活で、どんな仕事で、何を信じていようとも、
私達はいつでも「真理」に触れることが出来るのです。
なぜなら、全ては大きなものの一部なのだから。
【エピローグ】
その後エリーを追い詰めた査問委員会の中で、
最重要機密事項として、ひとつの興味深い事実が発覚する。
それは、エリーが記録していたノイズのみのビデオだ。
確かにノイズのみで何も写ってはいないが、
その録画時間がなぜか、18時間もあったのだ・・・
それから18ヶ月後、
電波望遠鏡の前で子供達の質問に答えるエリー。
子「宇宙にも人はいるの?」
エ「良い質問ね、どう思う?」
子「わからない」
エ「良い答えだわ、科学的よ」
エ「大切なのは、自分で答えを探すことなの」
他の誰でも無い、自分自身で観つけ、体験することが重要。
誰かに聞いて解った気になっても、意味が無い。
本当の答えは、自分の中からしか出てこないから。
↑↓あなたの答えはドコ?
映画『CONTACT(コンタクト)』を、
スピリチュアル目線で観てみようの後編です。
前回はコチラ。
【真理の探究】
そして物語は進み、ヴェガからのメッセージを解読すると、
メッセージの中に、一人乗りの移動装置の設計図が見つかり、
その巨大装置が建設された。
その乗務員に立候補したエリーに、パーマーがいう。
「君はこの任務に命を懸けようとしている。
死んでも構わないと思っている。何故だ?」
それに対してエリーは、
「物心がついた頃からずっと思ってた。何故人間はここにいるのか?
一体何をしているのか?一体何者なのか?」
「今回の計画が、その一部を見つけるチャンスだとしたら、
命を懸ける価値があると思わない?」
これは、まさに「真理の探究」哲学的問いです。
『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
そう、宗教も科学も求めているものは同じなんです。
ポール・ゴーギャン作『我々は何処から来たか、我々は何者か、我々は何処に行くのか』
乗務員選考面接の最後の質問で、選考委員の一人であるパーマーに、
「あなたはご自分を、敬虔な人間(Spiritual Person)だと思いますか?」
「神を信じますか?」と聞かれ、戸惑いながらも、
「科学者として私は、実証主義をとっています。」
「神の存在については判断するデータがありませんので答えられません。」
と回答し、選考から漏れてしまいました。
その後、何故そんな質問をしたのかとパーマーに詰め寄ると、
「万人の代表を選ぶのが僕らに課せられた仕事だ。
正直いって僕は選ぶ事ができなかった。神を信じない人間を!」
「君は自分以外の95%の人たちの信仰を、
単なる思い込みと決め付ける人間だ」と言い切ります。
それまで第一候補だったのに、神を信じるわけにいかないと、
科学者として全うに答えただけで、はじかれてしまう。
先日書いた【科学は信仰の障壁?】の中でも触れましたが、
信仰というものが、世界中の人々の中に、
どれだけ根付いているかを伺わせるシーンです。
それと同時に、こんなエピソードもあります。
「自然を破壊してきた科学者に、神との対話を許してはならない!」
とする宗教者が自爆テロリストと化し、装置を破壊してしまうのです。
この様に、宗教も盲信してしまうと、どのような道を辿ってしまうのか、
という、宗教の恐ろしい一面もキチンと描かれています。
【至高体験】
その後、実は装置はもう一つ在って、
結局エリーが搭乗することになります。
ちなみに、秘密裏に建造されていたこの装置、
ナント、北海道に作られていたんです!
つまり、宇宙と繋がる記念すべき場所が日本だということ!
これからの世界をひっぱていくのはアジア圏、
それも日本人がリーダーになるという話もありませが、
それを感じさせるような、深い意味を感じてしまいますね。
そして、時空間をつなぐトンネル「ワームホール」を通って、
エリーはヴェガに向かうんですが、
その途中で見た宇宙のあまりの美しさに、言葉を失い、
「まるで天上の祝祭。いいえ、言葉では、
ありきたりの言葉じゃ、表現できないわ」
「これはポエムよ」
「ここに来るべきだったのは詩人よ」
「なんて綺麗なの」
と言うステキな台詞があります。
この辺りは覚醒したときの「至高体験」を表しているのでしょうか。
そして、いよいよヴェガ星人と対面するのですが、
ココが肝だぞ!コレを陳腐に描いたら、全て台無しだぞ!
と、映画を観ながら思っていたんですが、
ナルホドそうきたか!そうだよな、リアルに考えたらそうなるよな!
って感じで、かなり納得の表現をしていました。
ヴェガ人との一言一言の会話も、非常に重要なんですが、
このシーンに関しては、敢えてココには書きません。
ご自身で確認して、その会話から直接感じ取って頂きたいです。
ひとつ言っておきたいのは、この装置やワームホールを作ったのは、
ヴェガ人ではなく、もっと大きな存在だということ。
これは覚えておいて下さい。
そして、エリーは無事返ってきて、「何日くらい行ってた?」と聞くが、
皆は実験は失敗だったと告げ、困惑するエリー。
外側から見ていると、その乗り物は目の前から消えることはなかったのだ。
計測器でも見失っていたのは1秒以下の一瞬に過ぎなかった。
ずっと記録していたはずのビデオも、ノイズしか入っていなかった。
つまり、何も起きなかったというのだが、
エリーは明らかに体験していた。
【存在証明】
ヴェガに行ったことの証拠が何もない、
科学的に証明できない。そもそも信号を受信したというところから、
全てはねつ造、でっち上げだったんじゃないか!
として、エリーは詰問会に掛けられ、
あなたの証言は嘘、幻覚だと認めろ!と詰め寄られます。
それに対してエリーは、科学者という立場として、
確かに何も証拠がない、幻覚だった可能性もあると認めつつも、
それが無かったとは認めることが出来ないと言います。
「私は確かに経験しました。」
「証明も、説明もできません。」
「でも、私の全存在がこう告げているのです。あれは事実だったと!」
「あの経験は私を変えました。」
「宇宙の、あの姿を見て、私は改めて気付いたのです。」
「我々が如何にちっぽけな存在であるかを。同時に我々が如何に貴重であるかも」
「私は知ったのです。我々は、より大きなものの一部である事を。」
「我々は決して孤独ではありません。」
「そのことを伝えたいのです。」
「あの畏敬の念と、希望とを・・・」
この詰問会後、記者から「あなたは信じますか?」との質問に、
神学者であるパーマーはこう答えます。
「科学と宗教の違いこそありますが、目指すものは同じ、真理の探究です!」
「彼女を信じます」そう言って、エリーの手を握ります。
科学を探究してきたエリーも、神を信じ続けるパーマーも、
進む道は違っても、同じ場所にたどり着くのです。
そこには、宗教と科学の境目はありません。
そこにはなんの矛盾も生じません。
我々は大きなものの一部に過ぎず、そこには何も違いはないのですから。
人は太古の昔から、探求し続けてきました。
しかしその方法は、人によって様々です。
ある人は、宗教的 神の中に真理を探し、又ある人は哲学の中に探します。
他にも、絵画や音楽や文学のように芸術の中に観いだす人もいれば、
植物や鉱物、動物の中に大いなる存在を感じる人もいます。
そして、もちろん科学の分野においても、それは同様なのです。
どんなものが好きで、どんな性格をしていて、
どんな見た目で、どんな生活で、どんな仕事で、何を信じていようとも、
私達はいつでも「真理」に触れることが出来るのです。
なぜなら、全ては大きなものの一部なのだから。
【エピローグ】
その後エリーを追い詰めた査問委員会の中で、
最重要機密事項として、ひとつの興味深い事実が発覚する。
それは、エリーが記録していたノイズのみのビデオだ。
確かにノイズのみで何も写ってはいないが、
その録画時間がなぜか、18時間もあったのだ・・・
それから18ヶ月後、
電波望遠鏡の前で子供達の質問に答えるエリー。
子「宇宙にも人はいるの?」
エ「良い質問ね、どう思う?」
子「わからない」
エ「良い答えだわ、科学的よ」
エ「大切なのは、自分で答えを探すことなの」
他の誰でも無い、自分自身で観つけ、体験することが重要。
誰かに聞いて解った気になっても、意味が無い。
本当の答えは、自分の中からしか出てこないから。
↑↓あなたの答えはドコ?